【復興釜石新聞連載コラム】#2「ありがとう」から始まる4年目~地域の「かすがい」、感じる生きがい~

※こちらのコラムは2016年7月20日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

 釜援隊の山口政義と申します。2013年4月から、唐丹地区生活応援センターで活動しています。着任当初は右も左も分からない状況で、釜援隊として何をしたら良いのか、何ができるのかという不安が大きかったのを覚えています。そんな中、当時のセンター長である見世健一さんをはじめ、地域の皆さんには大変お世話になりました。一緒に地域を回り、町内のさまざまな方を紹介していただきました。

 公民館事業や地域のイベント・行事の運営のお手伝い、寄り合いへの参加を通して様々な方との出会いがあり、地域に受け継がれる歴史や文化を知り、唐丹町が好きになりました。私だけでなく、東京から時々訪れる私の妻と子供にも温かく接していただいており、非常に感謝しています。

 唐丹に来て間もない頃、公民館に50年以上前のさくら祭りの映像が眠っているのを知り、仮設団地の談話室や集会所などで上映会を開きました。
家族や知人の昔の姿や、懐かしい風景を見ながら会場は非常に盛り上がりました。その中で、今は亡くなられた旦那さんが映っていたというおばあさんがおり、後日、見守りスタッフさんのアドバイスで、その映像を切り出して写真にしてお渡ししました。恥ずかしそうに喜んでくれたおばあさんを見て、初めて唐丹で誰かのお役に立てた気がしてうれしかったです。

 昨年4月には、そのさくら祭りが復活しました。約300年も続く独特なお祭りを、唐丹に来た当初から見たいと思っていました。また、唐丹をより深く知るためにも、伝統あるお祭りに関わりたいと思っていました。当日は、大名行列の中でも人数が少ない山谷集落の鉄砲隊に、ボランティアを集めて参加しました。お祭りが終わった後に「外部の支援がなかったら出演を諦めていたかもしれない」と言われたときは、お役に立てたことをとてもうれしく思いました。

 唐丹の皆さんと接していると、地域への愛情や誇りをとても感じます。たくさんの方が地域のため、誰かのために奮闘しています。震災の年に唐丹小学校を卒業した生徒は、卒業アルバムを津波で流され受け取ることができませんでした。2014年に、もう一度生徒たちへ渡すアルバムを作ろうという活動が始まり、私も前職までの経験を生かして、編集作業や資金確保などで協力できました。子供たちのために唐丹の多くの方々が関わっており、その中で力になれたことは私にとっても大きな出来事だったと感じています。

 唐丹での私の活動は全て、地域の方々とのつながりがあって成り立っています。相談に乗ってくださったりアドバイスをくださったり、一緒にやろうと言ってくださる方々がいてこそのものです。唐丹の皆さんが外から来た私を温かく受け入れてくださり、一緒にたくさんの行事に取り組んでいくことで、改めて「唐丹のために何かしたい」と思う気持ちが強くなりました。 これからも頑張ります。

釜援隊広報・佐野のコメント
 山口隊員に代わり、私佐野が地域の方にインタビューをしてきました。元花露辺町内会長の下村恵寿さんは、「政義君達は、郷土のつながりを考えるきっかけをくれた」とおっしゃいます。さくら祭が復活したときも、「政義君が郷土芸能団体に関わってくれた功績は大きいよ。地元のしがらみがないから、フットワークが軽くて良いんだよね」と話してくださいました。

 また、見世健一さんは「(唐丹地区の)自宅が流され辛かったときでしたが、地域の皆さんが声をかけてくださって、救われたんです。『唐丹の皆さんのためにできることをしよう』と思いました」と話し、「政義さんや唐丹の皆さんと一緒に活動できた2年間は、本当に楽しくやりがいのある日々でした」と振り返っておられました。

 「一過性のボランティアではなく、もっと長期で地域に関わりたい」と釜援隊に入った山口隊員。「外から来た人をこんなに温かく受け入れてくれる地域は、他にないと思います」とはにかむ横顔からは、山口隊員と唐丹町の絆が感じられました。

山口政義(第一期/唐丹地区生活応援センター)

釜援隊がゆく#2

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