【復興釜石新聞連載コラム】#4釜石に重ねる郷土愛~観光振興で描く、まちの誇りとDNA~

※こちらのコラムは2016年8月24日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

私が生まれ育った北海道標津(しべつ)町は、人口五千四百人ほどの小さな町です。子供の頃遊んだ豊かな自然、夢を語り合った友人…故郷には私の大切な ものがたくさんあります。大学進学を機に上京しましたが、いつかは標津に戻って故郷の発展に貢献できる人材になることを目標に進路を選んできました。

観光地域づくりとの出会い
 まずは神奈川のコンサルティング会社へ就職し、農産物のマーケティングや道の駅の計画づくり等、地域活性化を支援する業務に8年間携わりました。その後は観光についても学ぼうと、自然体験を用いたツーリズムを展開するNPO法人「ねおす」に就職しました。
「ねおす」で学んだのが「観光地域づくり」という考え方です。外から来た人が、自分のまちにある当たり前の風景や文化に感動する。その姿を見ると、自分のまちが一層誇らしく思える。まちへの愛着が増すと、「このまちをさらに良くしていこう」という人も増え、まちが活発になる。観光振興と地域づくりの両立を重視する手法に、興味を覚えました。

釜石で得た確信
 震災発生直後、「ねおす」の支援活動で釜石を訪れ、長期滞在しながらボランティアのコーディネートを務めました。その活動の中で、釜石を訪れた人と釜石の人が出会い、苦しい状況でも釜石の未来を共に見て、前に進む力を得ている様子に心を打たれました。ここから「観光地域づくり」につながる大切な気付きが得られたと思っています。
 2013年の夏に「ねおす」が釜石から撤退することになったとき、「復興支援への関心が薄れてからも、釜石に持続的に人が訪れる仕組みを作りたい」と思い、釜石に残ることを決意。釜援隊に入隊しました。
 釜援隊では「マネジメント隊員」として、観光交流課や観光物産協会などと協働している他の隊員をバックアップする役目を担っています。それまで培ってきた 知見やノウハウを、地域づくりに励む隊員や釜石の人と共有するよう努めました。また、企業のボランティアをコーディネートし、市と地域の団体が市外でのイベントを共催するお手伝いもしてきました。

観光振興ビジョン策定に向けて
 今年度からは、観光交流課と協働して「観光振興ビジョン」の策定に向けて動いています。私は、釜石市の観光の将来像を描く計画に、「観光地域づくり」が導入されるよう関係者をおつなぎしてきました。
「観光地域づくり」では、地域の「DNA」とも呼べるその土地の特性を大切にしています。訪れた人が感動するまちの風景や歴史的遺産、その土地に代々受け継がれている文化や慣習。これらはそこに住まう人たちの結束を高め、自分のまちを誇りに思うことを助け、 訪れた人にも魅力を感じさせます。
 では、「釜石のDNA」とは何でしょうか。例えば橋野地区では、ご近所の方やお客さんに「ねまってたんせ」と声をかける風習があります。この「ねまる」文化が、震災時には人々の心の拠り所となり、「被災地のオアシス」と呼ぶボランティアの方も居たそうです。三陸ひとつなぎ自然学校では、この「ねまる」文化を取り入れた観光ツアーを行っています。(観光庁「東北12の物語」)
 観光振興ビジョンの策定を通して、地域の方々がまちの「DNA」について話しあい、釜石市内外の方にとって魅力的な観光コンセプトが作られるよう、引き続きお手伝いしたいと思っています。

■広報・佐野が見る「釜石の誇りとDNA」
 「釜石らしさ」を考え、地域づくりに生かしていらっしゃる方々がいます。
 「復興とは、地域の誇りを取り戻すことだ」というのは、三陸ひとつなぎ自然学校代表、伊藤聡さんの言葉です。ボランティアや観光客向けのツアーを行いながら、「誇り」の形成には、郷土の良さを認めてくれる他者との交流が不可欠だと感じたそうです。「観光を通じた故郷の活性化」に挑む伊藤さんは、同じ目標を持つ齋藤隊員を釜石につなぎ留めた一人でもあります。
 伊藤さんは、釜石の「人」こそが釜石に人を惹(ひ)きつける「資源」だと話します。遠いところからでも会いに来たいと思う、魅力的な人がたくさんいる。それが、伊藤さんが感じる釜石の誇りでもあるようです。
 伊藤さんが釜石で会うべき人として紹介なさるのが、橋野鉄鉱山の現地ガイドを務める三浦勉さんです。橋野鉄鉱山がある橋野町青ノ木地区で生まれ育った勉さんは、釜石の「鉄の歴史」や、青ノ木地区の豊かな自然の素晴らしさを強く誇りに思っていらっしゃいます。釜石の資産を人に伝えることが、勉さんの生きがいでもあるそうです。
 齋藤隊員はそんな方々の姿から、標津町の未来を切り開くヒントを見出しているのかもしれません。

齋藤学(第二期/マネジメント)

釜援隊がゆく④校正

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