【復興釜石新聞連載】#18 戸惑う住民 支援者の変化問われる

※こちらの記事は2017年5月27日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

これまでの「釜援隊がゆく」では、隊員たちの活動や釜石への思いをご紹介してきました。今年度は協働先の現場に焦点をあて、そこで見えた「まちや人の変化」を綴っていきます。
 第一部のテーマは、災害(復興)公営住宅における自治会の形成です。住民の皆さんは、自治会の設立から近隣住民との交流促進まで、自らの手で「住みよい地域」をつくろうとしてきました。段階を経て変化する支援者の取り組みと合わせ、「復興」の歩みを振り返ります。

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 2014年2月、市内初の県営災害公営住宅が平田地区に建てられました。
 7階建ての県営平田災害公営住宅(平田アパート)には、釜石や大槌から約80世帯の方が入居。2015年の1月までには、約110世帯の方が新しい生活を始めました。
 鉄筋コンクリート構造の公営住宅はプライバシー対策も万全。一方では、周囲と顔を合わせる機会も減少し、入居から数か月が経っても「同じ階にどんな人が住んでいるか分からない」と不安を訴え、部屋に引きこもる方もいました。
 また、平田アパートの4割は60代以上の高齢者(2015年2月当時)であり、大半の方が集合住宅での共同生活は初めてでした。共益費の支払い、掃除当番、ペット飼育の禁止など、仮設住宅では求められなかった諸条件に戸惑う人が多かったといいます。

 平田アパートの状況に危機感を抱き、県にサポートを依頼する人もいました。特に急がれたのが、住民をとりまとめ、
行政との仲介をする自治会の設立です。
 しかし、災害公営住宅のコミュニティ形成支援は県職員にとっても未知の業務。入居者から個別に寄せられる苦情に、対応が追い付かない状況が続きました。「復興の過程では特に、行政の課内でも連携する必要がある、という教訓を得た」と関係者は話します。

 釜援隊の加藤愛隊員(当時)は、2013年8月から平田地区生活応援センターで活動していました。市の職員と一緒に仮設住宅や平田アパートのお宅を訪問して困りごとを聞き、社会福祉協議会やボランティアの皆さんとお茶っこサロンを運営。「被災された方が次の住まいに移るまで、笑顔で過ごしていられるように」と一人ひとりに寄り添う支援活動を心がけたといいます。
 一方、震災から数年が経つと、外部支援者の数も減り、それまで以上に住民自身で「互助」を意識してもらう必要が出てきました。
□市内で災害(復興)公営住宅の建設が進むなか、支援者たちも新しい支援の方法を探るため、話し合う日々が続きました。(釜援隊広報・佐野利恵)

■「声」
小林德夫さん(72)県営平田災害公営住宅自治会会長
 私は釜石の家族と離れ、20年ほど東京で働いていた。最近、「あの頃もっと家族と過ごす時間をもっていれよかった」と思うことがある。
ようやく故郷に戻ってきた1年後に被災し、避難所、親戚の家、貸家、仮設を一人で転々とした。
 行く先々で助けてくれた人たちのことは忘れない。浜で水を汲むのを手伝ってくれた漁師、無料で駐車場を貸してくれた大家。こちらの事情を話せば助けてくれる人は多いものだ。皆、ちょっとしたきっかけで仲良くなった。今の若い人は単独行動が好きなように思うが、人とコミュニケーションをとって損をすることはないと伝えたい。
 私はもともと引っ込み思案な性格だった。それが今では自治会長をしているのだから、家族や友人には驚かれる。
 平田アパートに引っ越したとき、県から「入居者から共益費などを集める管理人になって欲しい」と頼まれた。そうしてアパート全体を見渡したとき、東京でのマンション暮らしを思い出した。ルールが曖昧(あいまい)で、守らない人がいると皆が迷惑をする。近所との交流もなく、話し相手もいないので、住むためだけに帰る。それでは「死んだようなアパート」ではないか。そんな場所にはしたくないと思った。ここ(平田アパート)の人たちは一つ屋根の下に住む家族なのだ。
 釜援隊のような人たちがいる間に、出来るだけのことをしておきたい。住民に「協力してほしい」と一方的に言うだけではいけない。これからは自分が住民と外の人たちをつなぐパイプ役になりたいと思っている。

釜援隊がゆく⑱校正用

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