【復興釜石新聞連載】#19 課題に向き合い話し合う 釜援隊員、仲介役に

※こちらの記事は2017年6月7日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

 2014年2月、県営平田災害公営住宅(平田アパート)には、市内外から約80世帯の被災者の方が移り住みました。その多くが集合住宅での生活に不慣れであったため、駐車場や共益費、ペットの飼育などに関するトラブルがたびたび発生し、新しい生活に不安を募らせる方もいました。

 行政や社会福祉協議会などの支援者は高齢世帯などへの見守り訪問活動を続けていました。しかし、平田アパートの状況に対する抜本的な解決策は講じられないまま、約9ヵ月が経過しました。その背景には、被災地域での公営住宅管理は行政にとっても初めてであったこと、地理的にも距離のある内陸(県)と沿岸(市)では連携が難しかったこと、などの理由があったと関係者は話します。
 対応が遅れた反省を踏まえながら、県と市の職員たちは徐々に協働への意識を強めていきました。2014年11月からは、官民の支援者が「自治会形成」という同じ目標を持ち、より柔軟な情報共有や役割分担をするための会議を開始。翌年の1月には、行政、社協、釜援隊らの支援者と平田アパートの住民が一堂に会しての「住民懇談会」を開催しました。

 住民懇談会は「互いの課題認識を共有しながら、自治組織の必要性を考える」ことを目的とし、アパートのブロックごとに計4回開催されました。参加した住民からは「ルール違反を行政が注意するべきだ」「入居者の状況に合わせて柔軟な対応をしてほしい」などの意見が飛び交い、参加者同士で意見がぶつかることもありました。しかし「最初に本音で話し合えたことが、しっかりとしたコミュニティをつくるきっかけになった」と振り返る関係者もいます。
 懇談会の最後には、行政が自治会設立の協力者を募り、参加者の大半が同意。3月には自治会設立の準備委員会が立ち上がりました。

 2014年10月から平田地区生活応援センターと協働していた二宮雄岳隊員は、一連の会議に議論の調整役として参加し、ときには県と市、行政と住民の間に立って双方の理解を促しました。自治会設立の準備委員会では規約作成などの事務作業を手伝いながら、「どんな自治会があれば、より住みよいアパートになるでしょうか」と問いかけを続けました。
 高齢世帯の多い平田アパートの将来を考えると、早い時期から入居者同士がコミュニケーションを増やし、「支え合い」を意識する必要もありました。ハード面の管理や他地域の被災者支援、通常の公的業務も担う行政に代わり、二宮隊員は他の支援者と一緒にアパートの全戸を訪問し、集会への参加を促したり、自治会設立に向けた準備の進捗を伝えたりしました。
 二宮隊員は全世帯と会話できるまで訪問を繰り返し、お会いできた際には「最近、困ったことはないですか?」と尋ねました。そのうちに抱えていた悩みごとを打ち明け、その解決策を一緒に考える自治会の設立に興味を持つ方が増えたといいます。
 そうして2015年5月16日、110世帯中83世帯(委任状含む)という参加率で平田アパートの自治会設立総会が開かれました。市内の災害(復興)公営住宅では2番目となる自治会の設立でした。
(釜援隊広報・佐野利恵)

■「声」
大久保孝信さん(58)市民生活部部長

 震災当時、私は地域づくり推進室(現地域づくり推進課)室長として避難所や仮設住宅の運営を担当しました。シープラザ釜石に設置された災害対策本部には、全国から支援の物資や人が押し寄せました。毎日とても忙しかったのですが、支援者の暖かい気持ちにも触れ、「お願いします」と言われると「協力したい」という気持ちが湧くものでした。ジャズ・コンサートの開催も手伝いましたね。どんなときも楽しいことがないと参ってしまいますから。私自身も、仕事帰りに営業を再開した馴染みのお店に立ち寄って、力をもらっていたことを思い出します。
 被災者の要望は時間が経つにつれどんどん広がり、内容も変化していきます。頂いた支援は、仮設住宅、みなし仮設など全ての被災者に届けなければなりません。我々(行政)だけでは対応できない状況でしたから、社協やNPOなどの支援者とも柔軟に連携する姿勢で業務にのぞんでいました。
 被災地域での新しいコミュニティ形成に外部支援者の力も必要だということも、この頃から感じていました。仮設住宅では、大阪市職員が全戸を訪問し自治会の発足を手伝ってくれました。明るい関西弁の効果は大きく、住民の皆さんも親しみやすかったのでしょう。災害公営住宅でも二宮さんが県や住民との間に立ち、我々の意見や事情を伝えてくれることもありました。振り返ると、色々な過程を経てここまで来たことを実感しますね。

釜援隊がゆく⑲002

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