【復興釜石新聞連載】#27 交流増やし、笑顔咲く地域へ 唐丹で見えた釜援隊の役割

※こちらのコラムは2017年11月1日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

この日が待ち遠しいと話す人も多い、唐丹町民スカットボール大会。その始まりは2012年の秋、唐丹地区にある仮設住宅での会話でした。「被災して違う集落に移った方も多いんですね」「もう随分、友達の顔を見ていないよ。会いたいなぁ」―会話の主は(一社)RCFの清末彰胤さん、唐丹すぽこんクラブの体操教室に参加する方々、運動指導員の佐久間定樹さんです。

 RCFがコミュニティ形成支援のため唐丹地区に住み始めて約半年。仮設住宅をまわって心配事を聞いたり、難解な復興計画の説明会を開いたり、住民と行政の橋渡しをしていました。痛感したのは、全員が納得する復興計画をつくることの難しさでした。それでも未来に希望を持つためには、人とのつながりが必要ではないか。そう信じたRCFは、海外ボランティアとの食事会などさまざまなイベントも開きました。もともと結束力の強かった唐丹地区。こんな時こそ一つになろう、とリーダーシップをとる方々のもと、各集落での活動は増えていました。

 一方、集落を越えた人々の交流は、震災以前よりも少ないままでした。集落ごとに被災状況が異なり感情の差異が生まれていたこと、唐丹地区全体で集まるお祭りが震災を機に途絶えたことなどが原因でした。
 故郷の人たちを支えたいと同年に釜石へ帰ってきた佐久間さんは、離れている人たちが会える場を企画したいと清末さんらRCFと話し合い、老若男女が楽しめる新しいスポーツ・スカットボール大会を考案。町内会長など地域の方々に協力を仰ぐと、唐丹すぽこんクラブと唐丹公民館、唐丹地域会議、唐丹町内会連合会が共催する一大イベントになりました。
 会場となった体育館には、各集落から参加者がつどい、友人との久々の再会を喜び、手をとりあって涙を流す人もいました。RCFの山口幹生さんは「会いたい人に会えること、それが『このまちで生きたい』という気持ちにつながるんだと感じた」と振り返ります。
 好評を博した同大会は翌年以降も継続され、多い年では100人以上の方が集まる恒例行事となりました。年代を問わず主役になれる競技のため、大会参加を目標に体操教室などに参加する高齢の方も多いそうです。また、地域の子どもと大人たちが互いを応援し、世代を超えた一体感も生まれていると佐久間さんは話します。

 同時期に唐丹以外の地区でも聞き取り調査をしていた山口幹生さんは、人をつなぐ支援が他の復興現場でも必要だと気づきます。地域に根差し、地域のために頑張っている人を応援する黒衣(くろこ)となる復興支援員を、市の事業として設置するべく復興推進本部と協議。「唐丹地区のような活動を全市に広げて欲しい」という市議会議員の発言も後押しになったそうです。
 制度設計には中越地震の復興支援に携わった有識者らの意見も取り入れながら、2013年4月に「釜石リージョナルコーディネーター(釜援隊)」が発足。釜石市内で7名の隊員が活動を開始しました。(釜援隊広報・佐野利恵)

■「声」上村年恵さん(69)元唐丹町小白浜仮設住宅自治会長
 仮設に入ったばかりのころ、困ったのが入居者同士の仲たがいだった。でも、私たちは皆同じように津波で物を流されて、同じ気持ちのはず。いつか「仮設にいたときは楽しかったね」と話せるようになりたいよね、と話したら周りも賛成してくれた。小白浜仮設はそこから一つになった。
 考えたのは皆が参加できるもの。毎日ラジオ体操のテープを流して、体操教室も開いてもらった。「一緒にやっぺし」と声をかけるうちに、女の人も男の人も気軽に参加するようになって、笑い声が絶えない仮設になり嬉しかった。スカットボール大会では、小白浜仮設の選手を応援するために「流れ組」と書いた旗をつくった。周りは驚いて、たくさん笑ってくれた。辛いときだからこそ、笑顔が必要。そうじゃないと心が寂しくなってしまうから。
 この数年で、唐丹の人たちは一緒に何かをすることが増えたと思う。震災の前は、それぞれが養殖や畑仕事などの仕事を持っていて、集まる機会も少なかった。仕事道具を流されてしまった人も多かったから、身体を動かして健康でいようと声をかけあうようになった。
 子育ても仕事もひと段落して、自由に動ける時間が増えた今だから、地域への恩返しをしたいと思える。若いときは自分のことに精一杯で、当然。そうして順番に支え合えっていけたらいい。

釜援隊がゆく㉗校正用002

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