※こちらの記事は2017年7月5日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。
災害・復興公営住宅での取り組みは、行政や社会福祉協議会、民間支援者の間でも新たな連携を促してきました。
2016年4月、市・社協・岩手県建築住宅センター・NPO・釜援隊などの関係者は「東部地区復興住宅自治会設立支援プロジェクトチーム」を結成。県営平田災害公営住宅などでの経験をいかすべく、月に一度集まって入居者の声やトラブルなど情報を共有し、自治会形成に向けた交流会運営の役割分担を話し合うようになりました。
2016年5月から釜石地区生活応援センターと協働している東洋平隊員も、これまで12棟の復興公営住宅の自治会形成に伴走してきました。さまざまな人や意見の狭間(はざま)に立ちながらも「住民の皆さんがご自分たちで考える土壌を作るために、必要な支援はなにか」と自問し、自身の故郷・釜石を支える仕組みをつくろうと努(つと)めています。
ハード面の復旧現場を統括してきた関係者は「復興公営住宅の建設にあたって、入居者同士の交流の仕掛けを織り込むなどソフト面も意識してきた」と会議に参加しています。また、「復興の現場は常に『過渡期』であり、自分たちがその時に『目指すべき位置』を正しく見据えているか、試され続けてきた」と言います。「目指すべき位置」を互いが確認するためにも、連携する意義があるようです。
被災地域の新しいコミュニティ形成支援と並行して、市・社協・釜援隊は住民同士の支え合いを市内で展開する新しい取り組みを始めました。「地域の課題は複雑多岐にわたる。組織や立場を超え『みんなで』取り組まなければ解決できない」との思いから、事業名は「かまいし版地域包括ケア”みんなの”プロジェクト」に。参加した平田・栗橋・野田などの住民は、現在も「高齢世帯の買い物代行」「寄合の場づくり」などのコミュニティビジネスを展開しています(2015年度復興庁「新しい東北」先導モデル事業)。
プロジェクトを主導した行政職員は「支え合いの理念に共感する人は多い。しかし、それを住民に伝えるため、時に毅然(きぜん)と向き合い、一緒に考える人を増やすことは大変だ」と話し、「地道に種をまき続ける」釜援隊に期待を寄せてきました。
二宮隊員は「(行政や社協など)釜石の福祉を支える人たちが、住民の自立を促す存在にならなければ」との思いから協議を重ね、市は2017年度から「生活支援コーディネーター」という役割をつくり、社協職員にその任を委ねました。
近年、日本全国で「コミュニティ」の在り方が問われ、まちづくりに参加するNPOや市民への期待も高まっています。釜石での取り組みはその先駆的事例であるとして、協働者の釜援隊は2016年度に復興庁から復興功績顕彰を受けました。
「いち早くまちづくりの命題に向き合ってきた被災地の取り組みに、社会的課題を解決するヒントがあるのでは」と市外から視察や取材に訪れる人も増えています。(釜援隊広報・佐野利恵)
■声
小原裕也さん(24)社会福祉協議会・生活支援コーディネーター
東日本大震災は、私が高校を卒業した数日後に起こりました。岩手県立大学に進んでからは「学生ボランティア」として沿岸を訪れ、ご縁があって釜石でも多くの日を過ごしました。
復興の現場で学生に出来ることは限られています。それでも、釜石の人は私たちをとても暖かく迎え、声をかけてくださいました。支援しに行ったのに、逆に元気をもらっていました。その「恩返しをしたい」と思い、2015年から釜石市社協で働いています。
社協職員となり最初に携わったのが、復興公営住宅の自治会形成と「”みんなの”プロジェクト」です。1年目は反省することもよくありました。「やってあげたい」と自分が動くことが多かったんですよね。そのたびに「住民が自分たちのために必要とする自治会なのだから、それを支える黒衣(くろこ)になりなさい。」と周りから教わりました。
「自立を助ける」とは、その人の「選択肢を増やす」ことなのかもしれません。例えば「交流会を企画してほしい」と言われたら、他の地域での事例を紹介したり、自分たちで出来ることはないか一緒に考えたり。住民の声を丁寧に聞きながら新しい発想を促し、住民の選択を大切にする東隊員から学ぶことは多いです。支援の現場から「復興」の頭文字がとれたとき、釜援隊がやってくれたような細かいフォローをしながら、先のビジョンを持ち続けることも、これからの課題だと思っています。
生活支援コーディネーターの仕事はやりがいがある一方でとても難しく…「自分は何もできていないのではないか」とやるせなく思うこともあります。しかし、中途半端な気持ちではここに来ていません。釜石の“みんな”が「もう大丈夫」と言える日まで、頑張ります。