【復興釜石新聞連載】#22 競争から共栄へ 漁業の願い包んだ「海まん」

※こちらのコラムは2017年8月2日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

 素材を厳選した大ぶりのホタテに、旨味を凝縮した炙りサバ。三陸の海の幸をふんだんに使った海鮮中華まんじゅう「釜石 海まん」は、「釜石復興のシンボルをつくりたい」と願う人たちの想いも包んでいます。
 開発したのは「釜石六次化研究会」。震災復興への取り組みを機に集まった市内の事業者たちです。経歴も業種もさまざまなメンバーをつないだのは、釜石の水産業に対する「危機感」でした。

 日本全国の漁業現場において、乱獲や気候の変動による資源量の減少が問題となっています。沿岸部の漁獲競争が激しくなる一方、釜石が抱える課題の本質とは「変化する状況に対応するために協力し合う姿勢が不足してきたことではないか」と関係者は話します。
 例えば、水揚量(漁港の市場にあがる魚の量)を増やすための工夫。他地域では遠方から来る廻来船を港に呼び込もうと、官民が連携し宿泊施設などのインフラを整備しましたが、釜石では同様の対策がうまく進みませんでした。
 また最近では、市場に出荷するだけでなく、インターネットを活用し売り上げを伸ばしている漁業者が日本各地で増えています。宮城県の女川町では、そのような新しい事業を始める若い漁業者をベテラン漁業者が応援し、切磋琢磨する気運が高まっていると聞きます。
 しかし、釜石ではそのような協働事例があまり増えていません。その理由の一つとして、地域の漁業者は「釜石には企業城下町の風土が残っている。水産業に限ったことではないが、人々が協力して積極的に商売する気風がなかなかうまれなかった」ことを指摘しています。

 東日本大震災は、釜石の漁業が抱えていたこれらの問題を顕在化させました。釜石では漁業者の約八割が被災し、操業の中断を余儀なくされました。2016年の水揚量は2010年の約六割にとどまっています。
 「これからは市内外の人が知恵や資源を出しあって、『危機』を乗り越えなければならない。」まだ震災の傷跡が色濃く残る2013年、「地域一体のシンボル」となる商品の開発に着手したのが、釜石六次化研究会と中村博充隊員でした。
 研究会に参加したのは、市内食品加工会社の代表や老舗製菓業者などの5人(発足当時)。メンバーが共有していたのは「子どもたちのために釜石の水産業を発展させたい」という思い、そして「そのために必要な『変化』を、自分たちの世代で起こさなければならない」という決意でした。
 何とか「ライバル同士」である個人経営の漁業者をつなぎ、共に発展する仕組みを作れないか。メンバーが思案の末に行き着いたのが、地域にある未利用資源の食材を活用し、生産・加工・販売を同地域内で行う「六次化商品」の開発だったのです。
(釜援隊広報・佐野利恵)

■「声」宮崎洋之さん(47)三陸いりや水産株式会社代表/釜石六次化研究会代表

 自分の根底にあるのは日本人としての「助け合い」の精神だと思っている。海外の食産業界で働いていた数年間、日本人には当たり前と思える共助の文化がどれほど貴重なものかを知った。東日本大震災が起こったときは、避難所で一つのパンを分け合う日本人の姿を、各国のメディアが称賛していた。これからの水産業には、日本という島国が、限りある資源を共有しながら培ってきた精神が必要だと信じている。
 震災直後に妻の実家がある釜石を訪れたとき、「これからは、このまちのために生きよう」と心を決めた。すぐにパリの仕事を辞めて釜石に移住し、食品加工の仕事を始めた。その約1年後に、釜石の復興に携わる過程で出会った「仲間」に声をかけ、釜石六次化研究会を立ち上げた。
 商売の基本は「儲かること」だが、「本当に大切なことは何か」と考える人が社会に増えていると思う。これからは、経済と公共の利益を同時につくる仕事が主流になるのではないか。釜援隊はその先駆者だと期待しているし、研究会でも同じビジョンを持っている。
 市外出身の私が地域で新しいことを始めるのには大変な側面も多い。しかし、人には必ず「役割」がある。若い頃は自分のために時間を費やしてきた。これからは、自分に与えられた「役割」を果たすために生きる時間なのだと思っている。

 

釜援隊がゆく㉒校正用003

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