【復興釜石新聞連載】#23 開拓者の黒衣、釜援隊 事業者つなぎ「変化」を後押し

※こちらのコラムは2017年8月23日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

 レシピも設備も、全て地域の共有財産。商品開発はあくまで手段であり、大切なのは人々が一緒に物をつくる場づくりである―釜石六次化研究会は「釜石を支える新しい協働の文化をつくる」との決意で、「復興応援 キリン絆プロジェクト」の審査員の心を動かしました。
 
 大手飲料メーカー・キリングループは、2011年から三年間で約60億円を拠出し、東日本大震災被災地の復興活動を支援していました。協働者の一般社団法人RCFは、2013年に釜石六次化研究会を支援先として推薦。明確なビジョンを持っていることに加え、水産業を軸に和菓子や酒類の製造・卸売り会社など多様な事業者が参加していることがその理由でした。
 支援を打診するにあたり、キリングループは六次化研究会が目指す「漁師などの一次産業者と食品の加工・販売を担う二次・三次産業者が共に発展する仕組み」を具体化するよう求めました。しかし、メンバーは本業や自社の復興に追われており、集まる時間すらなかなか持てなかったそうです。
 
 そんな六次化研究会からの要請をうけ、釜援隊協議会から配置されたのが中村博充隊員でした。釜援隊の第一期となるため都内の企業を辞め、 釜石へ移住した中村隊員は当時25歳。強い覚悟を持った事業者の皆さんを前に、自分が出来ることは何か考えたといいます。まずは各社が持っている食材や技術、バイヤーとのネットワークなどを個別に聞いて表に整理。メンバーが「潜在的な資源」を多く持っていると示す狙いがありました。会議では進行役をつとめながら、自分の意見は決していわなかったという中村隊員を「人々をつなげ、その活動を応援する黒衣(くろこ)」として評価する声もあります。
 また、商品開発では利益計算が重要ですが、このプロジェクトでは「釜石の食ブランド発展が、各事業者の商品価値も高める」という長期的な視野を持つことも必要でした。「正直なところ、個々の会社に短期的なメリットは望めない。しかし、中村君の『釜石の食を、首都圏に発信しましょう』というスタンスを見て、自分たちに『損』な活動ではないと思えたし、誰がどんなコストを負うかという話し合いでも揉めなかった。」六次化研究会のメンバーである菊地広隆さん(小島製菓代表)は中村隊員の果たした役割をこう振り返ります。

 リーダーの宮崎洋之さん(三陸いりや水産代表)を中心に話し合いを進めた六次化研究会は、2014年5月「釜石オープンキッチンプロジェクト」の構想をまとめ、キリングループに提出しました。各メンバーが「原料・加工技術・販路」のいずれかを提供する「釜石 海まん」考案。また、他の事業者にもこの活動を参考にしてほしいと、六次化研究会のノウハウを第三者と共有する意思も示しました。
 キリングループは「釜石の産業発展を牽引する団体になってほしい」との願いをこめ、六次化研究会への助成を決定。釜石で初めて、水産業六次化の基盤が整いました。(釜援隊広報・佐野利恵)

■「声」君ヶ洞剛一さん(39) 有限会社ヤマキイチ商店専務

 あの頃はまちの復興のために必死だった。震災後に発足した市民団体に参加するようになり、そこで知り合った宮崎さんや菊地さんと六次化研究会を立ち上げたのも、自分にとっては自然な流れだった。
 色々な活動に携わったことで、自分の考え方は変わったように思う。昔は商売人として一匹狼でも良いと思っていた。今は違う意見の人とも交流して、その人の「良いところ」を取り入れようと思えるようになった。それも、市内外の人と新しい縁ができて視野が広がったからだろう。まち全体を見て、自分の「役割」は何かを考えるようになった。例えば、以前は市外のバイヤーが来ても自社との関係で完結していたけれど、今は市内の事業者につなげるようにしている。
 地域貢献を経済活動に昇華させたのが「海まん」であり、これからへの決意も含んでいる。商売上の利益はまだ少ないが、いずれ次につながる。そして必ず自分たちのためにもなると信じている。もちろん、そう思えるまでには様々なことがあった。まずは自分を大切にできないと、他人のためになることはできないと感じる。
 困っているからではなく、共通の利益のために助け合う。商売人として、その感覚を大切にしたい。

釜援隊がゆく㉓校正用002

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