※こちらの記事は2017年10月18日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。
子どもたちを応援する声が響く、唐丹中学校の仮設校舎。始業前の午前7時に校庭を走っていたのは、地域の駅伝大会を控える生徒と、東京から来た支援者たちでした。
2012年の夏、(一社)RCF復興支援チームは東日本大震災の被害を受けた唐丹地区を訪れます。釜石市はハード面の復旧計画をつくりながら、仮設住宅などでの心のケアやコミュニティ形成を進めている時期でした。
前年に発足したRCFは、都心の企業に勤めていた人々が中心となり、外部支援者が出来る長期的な支援方法を模索していました。釜石市復興推進本部と協議し、スイスに本拠を置く金融機関UBSグループとも連携しながら、住民に寄り添いコミュニティ形成を助ける復興コーディネーターの派遣を決定したのです。
唐丹での活動を始めたのは、岡本敬史さん、山口里美さんなどの四人。仮設住宅に住みながら、地域の皆さんと日常を共にしました。草取りやラジオ体操に参加し、中学校の駅伝コーチをつとめることもありました。「何のつても持っていない自分たちを、唐丹の方々は温かく受け入れ、いろいろな方に紹介してくれた。それが本当に有り難かった」と岡本さんは振り返ります。
里美さんは、毎日のように地域の寄り合いに顔を出しながら、住民の皆さんがどんなことを不安に思っているか、その声を拾い集めました。見えてきたのは、「復興計画に具体的なイメージを持てていない」「まちづくりに自己決定感がない」という課題でした。
原因の一つは、行政と住民の相互理解不足です。例えば、復興計画の住民説明会に出ても、内容がよく分からないと思う方もいたようです。里美さんたちが詳しく話を聞くと、道路建設の専門用語が難しいことや、あいまいな表現が多いことが理由でした。行政職員も説明の仕方を工夫していましたが、地権者との交渉が難航し、確たることを言えないという事情を抱えていました。
個人の思いと地域の合意に、距離を感じる人もいたようです。被災状況が異なったり、別の地域から移り住んだり、異なる事情を持つ住民ではまちづくりの優先順位も異なります。どこに復興公営住宅を建てるのか、どんな防潮堤を建てるのか、といった議論が白熱する一方、女性や若者は発言をためらってしまう傾向もありました。
一方的にまちづくりを決められているという感情や、数年後に自分がどこに住んでいるのか分からないといった戸惑いは、コミュニティの再構築を遅らせる要因にもなっていました。
行政と住民のはざまを埋めながら、地域の人びとが一緒にまちづくりを考えられるサポートが必要だ―このときのRCFの経験が、翌年に発足する「釜石リージョナルコーディネーター(釜援隊)」の構想につながったのです。
(釜援隊広報・佐野利恵)
■「声」見世健一さん(59)釜石市地域づくり推進課長
唐丹地区生活応援センター長に配属されたとき、朝、センターの窓を開けると壊れた家の姿が見えました。震災の約一年後で、被害の跡がまちに残っていました。応援センターは地域の医療福祉や生涯学習、まちづくりの拠点となる場所です。コミュニティ形成に携わるのは初めてだったので、自分に何ができるのだろう、という不安を抱えていました。
しかしそれからの3年間は、言葉を選ばなければ、人生のなかでも最も充実した仕事をした期間でした。辛い時期であったにもかかわらず、唐丹の皆さんは、皆で前を向こうという気持ちで団結していました。家に帰れば悲しまれていた方もいたと思います。せめて人前では明るくいようと振る舞う姿に、私の方が励まされ、力をもらいました。
地域の人たちが自ら頑張ろうとしているときに、RCFの皆さんが現れ、さまざまなアイディアやネットワークをくれ、思いを実現してくれました。地域の有志が災害史をまとめていたときは、睡眠時間を削って編集や出版作業を手伝ってくれました。スカットボール大会を企画したときは、100人以上の参加者を集めてくれました。そのうち住民の皆さんも以前より明るい顔になるようで、私も本当に嬉しかったです。
RCFも、続いて唐丹に来てくれた釜援隊の山口政義さんも、住民の声を丁寧に聞いてくれたことが一番大きな支援でした。地域の人にとっては、知り合いや行政職員には相談しにくいこともきっとあるからです。いろいろな人の間に入って橋渡しをしてくれるコーディネーターは、私にとって大きな存在です。