【復興釜石新聞連載】#28 協働増やし復興進める 地域の誇り・魅力を可視化

※こちらのコラムは2017年11月29日発刊の復興釜石新聞に掲載されたものです。

 テーブルに並んだ子どもたちの写真を、大人たちが囲んでいました。映っているのは、もうすぐ唐丹中学校を卒業する生徒たちの小学生時代。卒業式の数日前に東日本大震災が起こった彼らは、小学校の卒業アルバムを受け取れませんでした。
 2014年1月、そのことを知った佐久間定樹さん(唐丹すぽこんクラブ)と釜援隊の山口政義さん(2016年卒業)は、3年越しの卒業アルバム制作に乗り出したのです。漁協や町内会などに協力をあおぎ、集まった数十枚の写真を編集。同年の3月24日、卒業生16名にお手製の卒業アルバムを贈りました。生徒たちは顔をほころばせ、「大人になったら唐丹のためになることをしたい」と誓う子もいました。
 山口さんと一緒に地域の協力を集めたのは、当時唐丹地区生活応援センター所長の見世健一さんでした。生活応援センターは市内8地区に設置された行政機関です。地域ごとの保健・医療・福祉を強化するため保健師が配置され、センター長は公民館長も兼任して生涯学習を推進しています。設置当初の関係者によると、その名前には「郷土愛を育み、地域の将来を共に考える場を増やすことで、まちづくりを自ら担う住民を応援したい」との願いがこめられているそうです。
 2013年4月、釜援隊第一期として唐丹地区生活応援センターと協働を始めた山口さんは、震災で甚大な被害をうけた唐丹に何が必要かを考えました。漁業で栄えた歴史や、伝統芸能や数百年続く祭事が残る唐丹。一方近年では、生活の多様化に伴い人々が集まる機会も減り、唐丹を離れる若者も増えています。震災で顕在化した社会課題を解決するためにも、山口さんは「唐丹の皆さんが地域の魅力を再認識し、そこで生きることに喜びを持てるきっかけをつくろう」と決意しました。
 山口さんが初めに企画したのは昔のお祭り映像などを投影する上映会です。生活応援センター協力のもと各仮設住宅で開催すると、知人や家族の懐かしい姿を見られると大好評。回を重ねるごとに参加者が増え、引きこもりがちな高齢男性も訪れるようになりました。
 生活応援センターと地域団体の共催イベントでは、山口さんも関係者の調整や助成金の獲得などを手伝いました。民謡教室や市外遠足は、高齢者の交流の場に。唐丹のシンボルである桜並木の剪定(せんてい)作業は、地域の財産に人びとが今一度目を向ける機会になりました。
 2014年8月には、公民館と唐丹すぽこんクラブ、唐丹小中学校が協力し、全集落の子どもたちを対象に海水浴&シーカヤック体験を開催。震災を経験した子どもたちが、再び唐丹の自然に親しむ機会をつくりたいという見世さんの思いにさまざまな人が共感し、実現した事業です。
 見世さんは「業務だからではなく、誰かを喜ばせたいという気持ちだった」と当時を振り返ります。そうして2015年度に唐丹地区で行われた公民館事業は25、例年の二倍以上にのぼり、唐丹の人びとをつなぐ新たな誇りとなりました。(釜援隊広報・佐野利恵)

■「声」下村惠壽さん(68)元花露辺地区町内会長/唐丹すぽこんクラブ事務局長
 子どもに「豊さ」を教えるのに唐丹ほど良い地域はない。海の幸があり、歴史的遺産があり、人びとの情も厚い。地域外の人とも積極的に協働する文化がある。
 私が住む花露辺地域では、かつて人々が同じ船で漁に出て、家族のように支え合って生活していた。震災時は行政の支援が来る前に自分たちで安否を確認し、助け合って避難した。復興の過程でも意見集約を自分たちで行い、防潮堤を建設しないと合意した。
 以前は、地域の魅力や歴史を皆で考える機会はほとんどなかった。地域を思う気持ちがあっても、どう過疎化の解決につなげられるか分からなかった人も多いだろう。(一社)RCFや釜援隊は、住民が当たり前だと思っていることが都会では宝なのだと伝えてくれた。地域の資源に付加価値をつけて、市内外に発信してくれた。震災をきっかけにさまざまな人が訪れ、郷土を見直す機会を得たことをいかしたい。
 人生で最後に残るのは情だろう。人への思いやり、優しさだ。唐丹では住民も支援者も情に厚い人が多く、困った時には誰かが助けてくれるという安心感がある。現代の若い世代には、どこか不安な気持ちで生きている人が多いのではないか。子どもたちも、その親たちも、唐丹に来て心のゆとりを得て欲しい。
 震災が起こった今、生かされた私たちはこれからどうすべきかと考える。心の豊かさを今一度皆と分かち合いたい。

釜援隊がゆく㉘校正用

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